印鑑の対策

経済の専門家や経営者は環境問題が深刻化しても、それを経済の一部だと考えがちだが、ブラウンによればそれは誤りで、経済こそが環境の一部であり、「プランA」で進められている現在の経済システムは、人類が地球資源という資産の利子で暮らしてきた昔とちがって、資産を取り崩して生産高を不自然に増大させている「環境のバブル経済」だという。
この環境バブルが崩壊した時に世界が経験する痛みと脅威はテロリストの比ではない、とブラウンは警告する。
「元も子もなくなる」(元本も利子も失う)という状況が地球環境をめぐって近付きつつある―近年の気候変動の激しさや食の安全に対する不安などで、そう予感している人たちは増えているはずである。
しかし、ブラウンの言う「プランB」への思考とシステムの転換は世界大には未だに起きていない。
「プランA」型の経済成長を猛進中の中国と、その余沢もあって長年の停滞から脱出できそうだとはしゃいでいる日本。
そして何よりも、冷戦での唯一の「勝ち組」のアメリカの政権が資源収奪型の経済を推進して、形振りかまわぬ政策を止めようとしないのを眺めていると、ほとんど絶望的になる。
環境専門家の間には、人類がみなアメリカ人の生活様式で暮らしたいと考えたら、地球はあと二つ(計三個)、日本人と同じ水準を望むとしたらあと半分(計「五個)が必要だという推算があるという。
中国人がみな、一日に一切れの肉を食べるようになったら、世界はたちまち食糧危機に陥るという言い方もある。
だからと言って、アメリカ人や日本人が「自分たちの水準になるのはやめてくれ」と他の国の人たちに言える正当性は全くない。
それよりも、もっと構造的な問題は、私たちの生活を支えている二つの根幹的システム、企業と国民国家とが、環境問題という難問に対処するのに適しているのかどうかである。
それは資本主義と民主主義の問題でもある。
企業は利潤追求を最大の目的とした組織である。
法人を名乗ってはいても、個々の人間に求められるような倫理性は持ち合わせていない。
さすがに近年は「コンプライアンス」(法令順守)や「CSR」(企業の社会的責任)が言われるようになった。
が、日本語でなく文字や頭文字でそれを言うのが何やらうさん臭い上に、企業の社会的責任を言うのなら、最大のそれはきちんとなるだけ多く人を雇うことのはずである。
リストラ(首切りと訳すのが実態である)とアウトソーシング(臨時雇用と訳すべきだろう)に励みながら、何が社会的責任かと言いたくなる。
国家の問題はもっと厄介である。
民主的な制度をとればとるほど、政府と為政者は豊かさと安定を願う国民の意を迎え、その支持を得ようとする。
地球の資源が有限であることがはっきりしている以上、それをなるだけ自国民のために確保しようとするのは指導者の役割となる。
そうでなくとも、ナショナリズムの鼓吹と戦争をふくむ対外冒険は、指導者が国民の支持を自分に引き寄せるために陥りやすい誘惑であり、一方では不安や不満が募る時、ナショナリズムの旗の下に強力な指導者を求めて結集したがる心理が国民の側にもある。
国及び国民の「生存」を賭けて、各国が資源争奪のために争い始めたら、世界は修羅場と化すだろう。
そうならないためには、国際的な枠組みの強化、「脱国家」の試みや、社会の内側にあっては企業の利潤追求と異なる理念を持つ組織、非営利団体(NPO)、政府とは行動形態を異にする非政府組織(NGO)が括抗する力を持つことが大事になってくる。
だが、それにも増して大切なのは、従来型・多数派の思考に身を委ねるのではなく、自分で考え、行動する個人がどこまで育ち、力を持ち、多様性のある社会を作れるかだと私は思う。
たとえば、最近の流行語のなかで、もっとも愚かしく、忌わしいのは「勝ち組」「負け組」だと私は思う。
どうして人は勝たねばならないのか、それに、何を以て勝ちと言い、負けと言うのか。
六本木ヒルズに住み「金さえあればどんな女でも落とせる」と貧しい恋愛観を披露する者が勝者か、小泉劇場の波に乗って当選し、いい歳をして「チルドレン」と呼ばれる者が勝者なのか。
単一の価値(ものさし)で、それを測る社会は息苦しい。
大多数はそこでは敗者になってしまうから、不幸な人だらけになり、不機嫌な、とげとげしい社会を作ってしまう。
それぞれに、さまざまに多様なものさしがあることが、お金以上にその社会を豊かにする。
強いて人生の勝ち負けを付けたいというなら、「ああおもしろかった」と臨終の際にどこまで言えるかが、限りある生の勝ち負けを決めるものさしだと私自身は思っている。
もちろん別の尺度があってもよい。
生涯の少数派で、東大時代の仲間がみな「出世」したなかで唯一、定職らしいものにすら就かなかった安東仁兵衛は、私のものさしから見れば明らかに勝ち組である。
望ましいルール「日本人はなぜもっと幸せになろうとしないのだろう。
そのためにボクは映画を作り続けているのに……」数々の名作を世に送り出した黒澤明監督は生前、よくそう言っていたと、娘の和子さんに先日聞いた。
私も日本人は不当に不幸せになりすぎていると思う。
それは他人のせいや、システムのせいだけでないような気がする。
直ちに幸せになる方法がハウツーのようにあるわけではないが、人が両足で立っているように、自明のことは在る。
それぞれの生は他人のだれにも代替できないのだから、その生き方は「世間」に律せられるのではなく、それぞれが自分で考えるしかない。
これがひとつ。
もうひとつは、人は他者との関係なしに生きられないのだから、自分が生きたいように生きるためにも、他者、社会への働きかけをしていかねばならない。
企業、国家の「限界」についても、たしかに難問ではあるが、固定的に考えるべきではない。
ロハスがたちまち流行語になり、商品化されていったのは、それを名乗らずとも、同じ傾向を持つ生活様式を志向している人がすでに存在していたからである。
日米ともに消費者の三割がそうだという推計もある。
そうなると、企業の側も利潤追求のためにも、そちらに顔を向けざるをえなくなる。
利便のシンボルである車のメーカーすら「スローライフ」を言い出さざるをえなくなる(その全てを額面通りに受け取るかは別だが)。
資本主義にいろいろな形がありうるように、民主主義も千差万別である。
自分が生まれ育った郷土や家族らを愛する、自然な愛国心と国民国家生成(そんなに歴史が長いわけではない)とともに人為的に作られた国家主義を峻別できる程度の賢明さを有権者が持ち合わせておれば、政治家の底意にからめ取られずに済むかもしれないのだ。
私は安東仁兵衛的生き方を見事だと思うのだが、彼の属した左翼陣営の思考法や運動論には一定の批判を持っている。
それぞれの党派が「我のみ正し」と正統性を競い、異端排除に執着し続けた。
果ては、いわゆる内ゲバによって自滅していった者もいた。
四分五裂することで結果的には反対側を利することになった。
これは反面教師として、貴重な教訓と言ってよいだろう。
この教訓を活かして、従来の「運動」とはちがうルールを持つべきだし、実際起きていることも、これまでとはちがう。
この本でとり上げてきたさまざまな活動や試みは、いまこの列島の各地で起きていることのほんの氷山の一角に過ぎないのだが、そこから私なりの観察と要約をすれば、望ましいルールは次のようになる。


印鑑に対策をしましょう。これが印鑑の王道です。
印鑑の購入関心度が高まっています。印鑑の意識を持つことが重要です。
印鑑の購入関心度が高まっています。印鑑の知識が一目瞭然です。